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古本好きの文学青年や、楽器を背負ったバンドマン、一眼レフを携えたカメラ女子etc. サブカル好きの老若男女を惹きつけてやまない、世田谷区内でも指折りの人気エリアといえば…。そう、“シモキタ”こと下北沢だ。小田急線と井の頭線が交差しているため、渋谷や新宿といった都心へのアクセスも良好。網の目のように広がる細い路地には自動車が入らず、“まち歩き”を愛する人々に優しい。そうした環境が育んだコンパクトでユニークな街並みは、アメリカはオレゴン州のヒップな街、ポートランドにも通ずるところがある・・・というのは、ちょっと大げさだろうか。

古着屋やカフェ、雑貨屋などが軒を連ねる下北沢。一般的には、肩肘張らないオシャレなエリアというイメージが強いだろう。もちろん、その認識は正しい。一方で、70年代後半にライブハウスが誕生し、80年代前半から小劇場のメッカになった下北沢には、“文化のるつぼ”的な土地柄を感じさせるディープスポットも点在している。例えば、70年代から続く老舗ロックバー「トラブル・ピーチ」や、俳優の松田優作、写真家の荒木経惟らが贔屓にしたことで知られるジャズバー「レディ・ジェーン」などが挙げられるだろう。

ノスタルジックな風情が色濃く残る場所といえば、戦後の闇市から発展を遂げた北口の「駅前食品市場」もそうだが・・・。下北沢は大規模な“都市開発計画”に揺れる場所でもある。この市場も取り壊しによって、一部の区画を残すのみに。この夏にも解体作業が始まり、秋には更地になる予定だ。映画のセットをそのまま利用した飲食店「うさや」や、開業87年の歴史に幕を閉じた魚貝類店「ナガヌマ」などが営業していた頃が、まだ記憶に新しい。

現存するディープスポットの中でも特に象徴的な存在が、中心街からやや外れた茶沢通り沿いにある「鈴なり横丁」だ。煌々と輝くネオン看板や独特な構造が目を引くこの建物。元々は2階建てのアパートと横丁の複合建築物である。1階には現在も、「東京DOME」「GIJIDO」「スナック りえ」ほか、10軒ほどのバーや飲食店がズラリと連なる。

2階では、新東宝に俳優として所属した本多一夫さんが開いた小劇場、「ザ・スズナリ」や「シアター711」も営業中だ。下北沢が“演劇の街”と呼ばれるようになったのは、この場所を筆頭に「本多劇場」や「OFF・OFFシアター」など、本多劇場グループの芝居小屋が存在しているからに他ならない。

というわけで今回は、下北沢演劇界のゴッドファーザー的存在、本多一夫さんのもとを訪問。劇場オープンするまでの経緯や街の反応、下北沢を分断する道路計画(補助54号線)などについて話を聞いた。

無一文から劇場主になったワケ

Q.本多様は北海道のご出身だと伺いました。上京以前から、演劇を学ばれていたのでしょうか?

そうです。私は札幌出身で、高校時代から演劇部に所属していました。当時は戦後ということもあり、演劇を発表できる場所が少なくてね。市が運営していた1,500席ほどのホールもがらがら。セリフを言っても変に響いちゃって、今考えると劇場と呼べるシロモノじゃなかったように思います。芝居の道を志そうと思ったのは、昭和26年(1951年)に北海道放送というラジオ局が開設されたことがきっかけです。学校の勉強もあんまり好きじゃなかったし、そこの演劇研究所に所属しました。高校を卒業してすぐのことですね。

Q.下北沢にいらした経緯をお聞かせいただけますか?

研究所で2年ほど芝居を勉強した後、とあるプロデューサーに上京を勧められて。その頃はちょうど映画業界が盛り上がっている時期で、石原裕次郎や中村錦之助みたいなスターが活躍していました。そんな折、新東宝という映画会社が第4期ニューフェイス(新人俳優発掘オーディション)の募集をかけていたんです。それで研究所の連中と5~6人で連れ立って応募してみたら、幸か不幸か私だけ合格して。それをきっかけに下北沢へ上京して以来、ずっとこの土地に住んでいます。ちなみにニューフェイスには、全国から1万6千人の応募があったようです。

Q.上京先に下北沢を選ばれた理由は何でしょうか?

新東宝の撮影所が祖師谷大蔵にあったからかな。下北沢はそこまで電車で10円、新宿や渋谷へも10円で行けたので便利だったんですよ。撮影所に勤めている人や役者もたくさん住んでいましたし。でも当時は、赤提灯系の飲み屋とか小料理屋がぽつぽつあるぐらいで、あんまり栄えていなかったですね。

Q. 新東宝に在籍されていた期間はどのぐらいでしょうか?

同期の女優たちはどんどん売れていったんですが、私を含めて男優はなかなか芽が出なくって。昭和30年(1955年)の入社から5年後、25歳のときに新東宝は倒産してしまいました。あの頃は、テレビの人気に押されて倒産する映画会社が多かったですね。東映や日活、大映もダメになっちゃったし。

Q.その後、バーの経営をスタートされたそうですね。

一番街によく通っていた定食屋があったんですが、そこのおばちゃんに「流行りのトリスバーやってみない?」と、勧めてもらったのがきっかけでした。その頃、テレビに出演する機会もありましたが、当時はまだビデオがなくて。テレビドラマは本番一発勝負だし、映画館のスクリーンと比べて小さなテレビの画面に出演するのも嫌だってことで、役者には見切りをつけました。すぐにあちこちからお金を借りて、集めた開店資金が計30万円。今の感覚で言うと100万円くらいですかね。

Q.そのトリスバーは、どんなお店でしたか?

バラックみたいな店で、8人も入れば満員。女性バーテンダーを雇ってね。初めのうちはお客さんが全然来ませんでしたが、開店から3か月ぐらい経つと、知人の女優たちが「本多ちゃ~ん!」なんて遊びに来るようになったんですよ。三ツ矢歌子とか、原知佐子とか。そうしたら、“女優が来る店”って有名になっちゃって(笑)。建築家の黒川紀章さんなんかも、あんまり飲まないけど人と話すのが好きな常連でした。お店は大流行して、1年後には30万円の借金を完済しちゃいましたね。

Q.その後も事業をどんどん拡大されたそうですね。

1件目の成功を経て、2年目に15人ぐらい入る店を作ったら、そこも大ヒット。それからは1年ごとに2~3軒ほど店を増やしていきました。喫茶店やったり、天ぷら屋やったり、レストランやったり。役者よりも経営者に向いていたのかな(笑)。でも、40歳になった頃に飲食事業を一切やめました。38歳のとき、後に「本多劇場」を建てた450坪ほど土地が手に入ったからです。

Q「本多劇場」を建てる前、そこはどんな土地だったのですか?

ぽつんと煙突が建つ銭湯の跡地で、うさぎや鶏が野放しにされていました。でもあるとき所有者が急に亡くなって、その方の奥さんに「相続税が払えないから、買ってくれない?」と言われたんです。私は以前から劇場をオープンしようと考えていたし、即決で購入しました。それからどんどん敷地を広げていって、本多劇場が完成したのが昭和57年(1982年)。私が48歳のときでした。

Q.では、「ザ・スズナリ」はいつ完成したのでしょうか?

前身となる建物を作ったのが35歳のときです。1階が横丁、2階がアパートという構造で、飲食店経営者や若い人たちに、安い値段で貸していました。でも後に上のアパートを壊して、稽古場を作ったんです。元々は木造だったんだけど、全部鉄骨に入れ替えてね。当時は俳優養成所「本多スタジオ」で所長をしていて、30人ほど研究生を抱えていたから。すると、多方面の劇団から劇場にして欲しいとい声がありました。そんな要望を受けて、さらに改装したのが「ザ・スズナリ」の起こりです。完成は昭和56年(1981年)。「本多劇場」より1年ほど前ですね。

Q.「ザ・スズナリ」や「本多劇場」ができて、どんな反応がありましたか?

東京都内に小劇場が少なかったし、「ザ・スズナリ」と「本多劇場」が立て続けにできたことは、演劇界にセンセーションを巻き起こしたと思いますよ。「ザ・スズナリ」の収容人数が約200人、「本多劇場」は約400人。市営や国営の大きい劇場はあっても、この規模の芝居小屋はなかったんですよ。うちの劇場がヒットしてからは、お役人さんも各地に小劇場や中劇場を設けるようになりましたね。でも、個人で劇場を続けるのは大変ですよ。税金は取られるし、維持費もかかる。儲からないから、貸し店舗の家賃収入で支えている部分もありますね。

Q.それでも長きに渡って劇場経営を続ける理由を教えてください。

やっぱり北海道にいた頃、劇場がなかったから。せっかく芝居を作ってもそれを発表できない環境だったし、「小さくてもいいから、劇場が欲しい」という話を仲間内でしていたんです。私はそれを肝に銘じて、“演劇人には発表の場が必要だ” と考えるようになりました。飲食業でお金を稼げたのも偶然で、それをずっと続けるつもりもなかったし。本気で芝居を志す人たちのために、一肌脱ごうと思ったんです。今では下北沢に8つの劇場を持っていますよ。

Q.街を分断する都市計画道路(補助54号線)についてはどう思われますか? 「ザ・スズナリ」も少なからず影響を受けると言われていますが・・・。

私自身は推進も反対もしません。芝居やってるからね。政治的なことに関わらず、“色”をつけないでいたいんです。私の劇場は政治色や宗教色のない、真っ白な状態であってほしい。従業員にもそれは言っていますよ。一歩外に出たら、それぞれの色があると思いますけどね。お役人さんたちが考えたことを、一個人で止めることもできないし、旗も振りたくない。若い人たちのために、こういう特殊な場所を残しておきたい気持ちはありますけどね。

Q.演劇の街としての下北沢は、今後どうなると思われますか?

演劇は街にしっかり根付いてますから、変わらないと思いますよ。盛り場でもなんでもない街に、これだけ劇場が集まっているのは異例ですよ(笑)。うちの若いスタッフたちも、この土地で演劇を盛り上げるために、しょっちゅうミーティングの機会を設けています。私自身は、高齢化や介護施設といった社会的問題を取り上げて、多くの人に気付きを与える芝居を作ってほしいですね。社会を見つめて、正面からぶつかっていくようなものが理想かな。

小さな輪から大きな輪へ

御年82歳。傘寿を超えているとは思えない驚異的なバイタリティで、劇場を切り盛りし続ける本多さん。たった8席の小さなバーから輪を広げ、下北沢を演劇の街へと導いたエネルギーは、微塵も衰えていないようだ。劇場への愛を貫き、街の変化にも動じない。そんな姿を見ると、演劇の街としての下北沢はまだまだ安泰だと妙に安心する。この街を味わい尽くすために、「ザ・スズナリ」や「本多劇場」へ足を運んでみてはいかがだろうか?

[参考文献]
「下北沢ものがたり」(シンコーミュージック)
「シモキタらしさのDNA 『暮らしたい 訪れたい』まちの未来をひらく」(エクスナレッジ)

本多一夫

劇場経営者、実業家、俳優。1934年北海道生まれ。1955年に第4期ニューフェイスとして新東宝に入社。同社倒産後は下北沢にバーを開店。事業を拡大して数十店舗を所有する実業家へ。1981年「ザ・スズナリ」、1982年「本多劇場」、1984年「駅前劇場」を下北沢にオープン。その後も事業拡大を続け、現在は下北沢と横浜を合わせて9劇場のオーナーに。現在もフリーの俳優として舞台に立つ。

PHOTOGRAPHER
YOSHIFUMI SHIMIZU