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6月4日に公開された映画「FAKE」は、いわゆる“ゴーストライター問題”で話題となった、佐村河内守(さむらごうち まもる)氏を追ったドキュメンタリー作品だ。公式サイトには各界の著名人からコメントが寄せられており、「水曜日のカンパネラ」のコムアイは、「客観的な報道は、情報を受け取る側の推理力にかかっている、という当たり前のことを、ニコニコと包丁研ぎながら説く作品」と寄せた。
この問題について友だちと語り、SNSで何かを投稿したことがあるならば、この作品には”あなた自身の問題”として立ち上がる何かがあるだろう。2016年必見の1本……とはいえ、本稿執筆時点(5月中旬)で筆者は「FAKE」を未鑑賞。なので、ここからは私個人の話をしよう。かつて、文字通り”ゴーストライター”を生業としていた私が、”ゴースト”でいられなくなった時の話を。
“ゴースト”はツライ? 楽しい?
ある時は企業の社長に、ある時は科学者に。20代半ば~30代前半までの5、6年だが、当時の私はさまざまな案件でゴーストライティングをしていた。書籍のゴーストを3冊同時並行で進めていたときは、日替わりで自分の中に他人の人格が宿るような感覚を覚え、とにかく楽しかったのを覚えている。
そう、「誰かの人格になりきって何かを作る」というゴースト行為は楽しいのだ。なりきるのが才能にあふれた好人物であれば尚更である。「好きなキャラになりきって、同人誌を書く」のに近いかもしれない。ただ、一言で”ゴーストライティング”といっても、仕事の取り組み方は多種多様である。本稿では3パターンに大別させてもらおう。
1つ目は、本の著者と定期的に会い、その話を文章にまとめていくパターン。メッセージが伝わるように”文章をデザイン”する感覚だった。2つ目は、企画内容や伝えたいメッセージを事前に共有してもらい、後はライターが独自に取材・調査などしてまとめていくパターン。原稿を書いたら著者にチェックしてもらい、修正・加筆のやり取りを繰り返す。著者になりきるという点においては、パターン1と同じ。どちらも気楽で楽しい仕事だった。
最後は、「この著者で本を出したい」という企画だけがあり、どんなメッセージをどんな論理で積み重ねていくのかがないパターンである。「そんなことある?」と思うだろうが、そんなことあるのだ。それでも、著者のキャラが立っていれば良い。例えば、アントニオ猪木の著者本を猪木氏に取材しないで書けと言われても、「締め切りいつですかー!」と即答できる。もちろん、本心に踏み込んだ文章にはならないが、「一般的な猪木氏のキャラクター」になりきって書くことは難しくない。モノマネのようなものだ。
しかし、あまりに中身のない人や存在しない団体、架空の人物などといった著者の代わりに、何かを書けと言われても、途方に暮れるばかりである。ちょっとした雑誌原稿なら良いが、書籍1冊分、2-300ページはごまかしで埋められない。どこかに「書く理由」「テーマ」を求めることになる。パターン1・2であれば、著者の中に見つけられるものだ。それが見当たらないので、仕方なく”ゴーストライター”が自分自身の中に「書く理由」「テーマ」を見出してしまうと……、その瞬間に”ゴースト”でいられなくなり、作品の中で実体化してしまう。頭の中身が、そこに出てしまうのだから当然である。
才能ある人の周りで愉快に暮らす”ゴースト”たち
「耳が聴こえるかどうか」をめぐる問題、彼らの立ちまくったキャラクターなどが事を大きく派手にしているが、佐村河内氏と新垣氏の関係をシンプルに見れば、「クリエイティブ業界にはありふれた話」ともいえる。こうした構図を知りたければ、ファッション界の裏側を追ったドキュメンタリー作品「サイン・シャネル」や「マーク・ジェイコブス&ルイ・ヴィトン」あたりを見てほしい。気分屋で偏執的で妥協を許さない、しかし自分で実際に細部を作るわけではない天才たちの裏側で、トップレベルの職人たちがいかに苦悩し、徹夜し(笑)、クリエイティブを支えているか。職人たちのクオリティがなければ、天才たちは天才的な作品を残せないが、一方で職人たちが表舞台に出てくることもまずない(私には佐村河内氏と新垣氏のどちらが天才であり職人なのか言及できないが……)。
アーティストを、ディレクターを支え、クリエイティブという名の妄想を現実にするため、日夜奮闘する名もない人々を”ゴースト”と呼ぶならば、クリエイティブな仕事が集中する東京は、“ゴースト”が多数生息する“ゴーストタウン”といえるかもしれない。そしてゴースト行為は楽しいものだ。天才のそばであれば尚更である。楽しく愉快なゴーストたちが闊歩する街、それが東京だ――というのは言い過ぎだが、そんな風に感じる瞬間がある。